category: 徳川吉宗
DATE : 2007/02/17 (Sat)
DATE : 2007/02/17 (Sat)
*1684年(貞享元)-紀州徳川家藩主徳川光貞の子として生まれる。
*1696年(元禄9)-従四位下右近衛権少将兼主税頭。名を松平頼久と名乗る。ついで、頼方と改める。
*1697年(元禄10)-越前国丹生3万石藩主襲封。
*1705年(宝永2)-兄の徳川綱教、父の光貞、兄の頼職が死去。紀州徳川家5代藩主となる。ついで、従三位左近衛権中将。名を将軍綱吉の一字を賜って吉宗と改める。
*1706年(宝永3)-参議
*1707年([宝永4)-権中納言
*1716年(正徳6)-将軍後見役就任。ついで、征夷大将軍・源氏長者宣下。正二位内大臣兼右近衛大将。
*1742年(寛保元)-右大臣
*1745年(延享2)-征夷大将軍辞職
*1751年(寛延4)-薨去。ついで、贈正一位太政大臣。
*1696年(元禄9)-従四位下右近衛権少将兼主税頭。名を松平頼久と名乗る。ついで、頼方と改める。
*1697年(元禄10)-越前国丹生3万石藩主襲封。
*1705年(宝永2)-兄の徳川綱教、父の光貞、兄の頼職が死去。紀州徳川家5代藩主となる。ついで、従三位左近衛権中将。名を将軍綱吉の一字を賜って吉宗と改める。
*1706年(宝永3)-参議
*1707年([宝永4)-権中納言
*1716年(正徳6)-将軍後見役就任。ついで、征夷大将軍・源氏長者宣下。正二位内大臣兼右近衛大将。
*1742年(寛保元)-右大臣
*1745年(延享2)-征夷大将軍辞職
*1751年(寛延4)-薨去。ついで、贈正一位太政大臣。
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category: 徳川吉宗
DATE : 2007/02/17 (Sat)
DATE : 2007/02/17 (Sat)
*父:徳川光貞(紀州徳川家2代)
*母(側室):お由利の方(浄円院) 紀州藩士・巨勢利清の娘と伝えられるほか、百姓の娘であるという説など多数。
*兄弟
**徳川綱教:紀州徳川家3代
**徳川頼職:紀州徳川家4代
**光姫:一条兼輝室
**栄姫:上杉綱憲室
**育姫:佐竹義苗室
*正室:真宮理子(伏見宮貞致親王)
*側室:須麿(深徳院)
**長男・徳川家重(9代将軍)
*側室:吉牟(本徳院)
**次男・徳川宗武(田安徳川家初代)
*側室:梅(深心院)
**三男・源三
**四男・徳川宗尹(一橋徳川家初代)
*側室:久免(覚樹院)
**長女・芳姫(正雲院)
*側室:おさめ
*側室:お咲
*養子
**利根姫(雲松院):伊達宗村 (仙台藩主)伊達宗村室(紀州徳川家徳川宗直娘)
**浄岸院竹姫](浄岸院):島津継豊室(権大納言清閑寺熈定娘)
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プロフィール
HN:
徳川吉宗の三男坊
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性別:
男性
職業:
徳川吉宗の金庫番
趣味:
徳川吉宗と新田開発
自己紹介:
このたびは徳川吉宗の三男坊と言うことで偉大なる徳川吉宗のサイトを開設する運びとなりました。徳川吉宗をこれまで以上に皆様方に知っていただきたく、また徳川吉宗がなぜ徳川吉宗だったか。これからの徳川吉宗を考える際に徳川吉宗を省みる必要がございます。残念ながら徳川吉宗は遠い昔になくなっていますが、その徳川吉宗の偉業を讃え皆様に徳川吉宗のあれこれを知っていただく場を作らせて頂きました。これを機会により一層徳川吉宗を知っていただき、紅白歌合戦にも、野球オールスター戦にもぜひ徳川吉宗を出場させたく存じます。最後になりましたがこのサイトを開設するにあたって資料を提供下さいました紀州徳川家研究会の皆様、また拙者の拙い文章を訂正下さいましたパソコンの前の皆様方には心より御礼申し上げます。
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