DATE : 2007/02/17 (Sat)
享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の嫡流)が途絶えた後を受け、徳川御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、御三家筆頭の尾張家を抑える形で徳川吉宗が第8代将軍に就任したと一般的には説明されている(実際は、館林藩主・松平清武というれっきとした秀忠の男系・直系子孫が存在していた。しかし、館林藩領内は重税のため一揆が頻発していた上、本人もひとたび他家に養子に出た者でありすでに高齢となっていた事により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心は、あまりなかったとされている)。
家康の遺言に従えば、御三家筆頭の尾張藩第6代藩主・徳川継友が将軍となるのが当然であったが、継友は徳川吉宗より1世代家康との血筋関係が遠いということもあってか、徳川吉宗が将軍に就任することになったといわれている。さらに徳川家宣の正室・天英院熙子の尽力もあったと言われている。
徳川吉宗は将軍就任にあたって紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府藩は、将軍の継嗣として、江戸城に呼び戻されると廃藩にされ、その藩士は幕臣となった。だが徳川吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄弟の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士の内から大禄でない者を20数名(加納久通・有馬氏倫ら)選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた。また紀州藩が、御三卿と共に徳川吉宗の血筋の藩塀としての役割を担った。
DATE : 2007/02/17 (Sat)
徳川吉宗は将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣時代からの側用人であった甲府藩出身の間部詮房や新井白石を罷免し、側用人政治から将軍親政に復した。
また紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、徳川吉宗は大奥の整備、綱吉時代に禁止されていた鷹狩の復活、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。第4代将軍・徳川家綱時代から続いていた学問を奨励する文治政治を見直し、武芸を奨励する武断政治を志した。
また徳川吉宗は徳川家康による御三家設置を参考にして、田安徳川家(田安家)、一橋徳川家(一橋家)、清水徳川家(清水家)からなる御三卿を設置する。